怒りに身を任せない『修証義』の「不瞋恚の教え」

お寺のこと

『修証義』というお経の中の教え

「不瞋恚(ふしんい)」という言葉を紹介します。
曹洞宗でお唱えする『修証義』というお経には「十重禁戒」といって、仏教徒に大切な十の心構えが示されています。その中の一つに、不瞋恚戒というものがあります。瞋恚とは「怒り」のことで、不瞋恚は「怒りに身を任せないこと」という意味です。私はこの不瞋恚の意味を知り、そして修証義の中でお唱えする度に、怒りに我を忘れていた昔の自分を思い出します。

大学時代の苦い思い出

私は大学生の頃テニス部に所属していました。大学の部活というのは上下関係が非常に厳しいものでした。私が大学三年生のときのことです。部活のキャプテンが考える練習メニューに私は不満を抱き「これで本当に上達するのか」という疑問を持っていました。そんな中でも私は、キャプテンが考えた練習メニューを我慢して続けていました。しかし段々と我慢ができなくなり、次第に怒りが込み上げてきたのです。私は練習終わりにキャプテンのもとへ向かいました。そして感情に任せて「自分たちはこんな練習がしたい訳ではない」「あなたにキャプテンなんて無理なのでは」と怒鳴り散らしました。結果、そのキャプテンは練習メニューを考えることを違う人に任せて、部活にもあまり来なくなってしまいました。そういうこともあり、私は学生時代、周囲から「怒りっぽい人」という印象を持たれていました。

修行という転機

しかし、そんな私に転機が訪れます。私は大学を卒業し、すぐに岡山県にある洞松寺という修行道場に入りました。洞松寺には外国人の修行僧も多く、修行中は様々な人と一緒に共同生活を送ります。なので、ときにはお互いに不満を抱くこともあります。ある日、私は思い通りにならないことにイライラしていました。一人の修行僧が任された役割を果たさず、修行生活が上手くいかなくなったのです。怒りを本人にぶつけようとしていた私の様子を見て、同僚の外国人の修行僧に「怒っても何の解決にもならない、怒りは君の心の中にしかないのだから」と英語で言われたのです。このとき、私はハッとさせられました。
 お釈迦様は、この世界のあらゆるものは思い通りにならないと説かれました。しかしそれを思い通りにしたいと思うとき、心に怒りが湧いてくるのです。私は不瞋恚の教えに触れたとき、自分の怒りは他人や環境のせいではなく、自分の心と現実の間に生まれていたことを思い知りました。「思い通りにしたい自分」と「思い通りにならない現実」の間で苦しみ、怒りを生み出していたのは、他でもない私自身だったのです。


まとめ

怒りという感情への向き合い方を考え直すきっかけをくれた外国人の修行僧の言葉を、私は未だに胸に刻んでいます。当然ながら私たちは「怒り」を完全に無くすことはできません。しかしその感情と向き合いながら、怒りに身を任せてしまうことがないように日々を過ごしていきたいです。

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